【ウガンダ】タバン・サンティーノさんのストーリー
~ビディビディ難民居住区ゾーン3ビレッジ3からの便り~
「私の名前はタバン・サンティーノです。南スーダン国籍の、25歳です。私は、祖国の南スーダンを逃れてきました。内戦のためです。多くの人たちが避難を余儀なくされました。」
タバンさんはウガンダで生まれ育ちましたが、10歳のときに南スーダンの故郷のセントラル・エクアトリア州ディモ1村に戻り、母親と幸せに暮らしていました。ウガンダで高等教育を受けた後は、再び南スーダンに戻り、イェイ州(以下、イェイ)で仕事を探しました。イェイでは、Excel Maryland and Harvard campusesという私立高校でパートタイムの物理教師として働いていましたが、2016年9月に内戦が始まりました。
「家にいても銃声が鳴り響く日々でした。夜は、政府軍が常にパトロールしていたため、危険が及ばないよう常に18時には帰宅して、ドアを施錠していました。イェイの行政官は住人にイェイに留まるように説得しようとしていましたが、それも無力に終わり、多くの住人たちはイェイを離れて行きました。」
多くの住人と同様、イェイを逃れることにしたタバンさんですが、ウガンダには、生きて到達できるとは思っていなかったそうです。
「(ウガンダと南スーダンとの国境である)カヤ国境までの道のりは危険で、道中の検問所で軍人にスムーズに通過させてもらうための現金も用意していく必要がありました。当時私は高校の教師でしたが、給与支払いが遅れることが多かったため、そのような現金を準備することは困難でした。」
「そこで、イェイでビジネスをしていたウガンダ人の隣人に、ウガンダから貨物を運送するトラックに同乗させてもらえないか交渉し、1000南スーダンポンド(約22ドル)の支払いと、道中での荷物の積み下ろしを手伝うという条件で、同乗させてもらえることになりました。」
「当日は、多くのバリケードや検問所に出くわしましたが、どうにかカヤ国境に着き、モロブ市から逃れてきている母を2日間そこで待ちました。2016年9月22日、母と無事合流し、次の日にウガンダに越境し、ビディビディ難民収容所(到着した難民を一時的に保護する難民居住区内にある施設)に移されました。2016年9月26日には、ビディビディ難民居住区ゾーン3ビレッジ3、ヨヨ村に移住できました。」
「難民になると、所有物はすべてなくなります。お金、食料、土地、なにも持っていません。外部に頼らざるを得なくなり、明日なにが起こるか分からない不安定な生活になります。難民になると、人生のすべてがテンポラリーな感覚になるのです。ただ、世界には南スーダンの状況を知っていて、支援してくれる人たちがいました。彼らの助けなしでは、私たちのような人たちは生き延びることができなかったでしょう」とタバンさんは言います。「ピースウィンズ・ジャパン(以下、PWJ)の支援は私たちのコミュニティにすぐに変化をもたらしました。以前は雨漏りのする一時的なシェルターに住んでいましたが、住み心地の良いより長期的に使えるシェルターが提供され、生活が大きく改善しました。トイレ建設の支援も、私の住んでいるコミュニティの野外排泄の頻度を大きく減らしました。」
タバンさんは、2017年11月からピースウィンズ・ジャパンのフィールドスタッフとして働いています。「自分が住むコミュニティとピースウィンズ・ジャパン、また他の人道支援団体との架け橋」となる仕事を通してコミュニティに貢献できることをとても誇らしく思っているそうです。仕事で貯めたお金でコボコ県(ビディビディ難民居住区があるユンベ県に隣接する県)に土地を買ったとのことで、いつかそこへ家族とともに移住する予定です。
タバンさんは、「いつか南スーダンに平和は訪れるとは思いますが、その平和が安定して続くとは思いません」と最後に付け足しました。家族と一緒にいずれ祖国に戻ることを望んではいますが、それがいつになるかもまったく分からず、南スーダンに完全に平和が訪れるまではウガンダに残ることを考えています。