【仕事場は地球#08】「生かされている私は何をすべきか?」―― 石川県・珠洲事務所代表 橋本笙子

2024年1月1日に石川県の能登半島で発生した最大震度7の大地震では、死者・行方不明者は594人(うち災害関連死364人)に上り、全壊家屋6,520棟、半壊・一部破損家屋158,120棟、加えて日本海沿岸の広範囲を津波が襲い(場所によっては4メートルを超えた)、土砂崩れや火災、液状化、それに伴う交通網の寸断などによって多くの人の生活が一変しました。
追い討ちをかけるように同じ年の9月21日に発生した集中豪雨で、さらに多くの人が家や生業を失いました。地震と豪雨によって過疎化と高齢化に拍車がかかる能登半島の突端・珠洲市で地震発生直後から支援活動を続ける現地事務所代表の橋本に話を聞きました。
「生きる選択は本人にある」

――地震発生翌日に空飛ぶ捜索医療団ARROWSが物資・医療支援のために現地入りして以来、この2年間ピースウィンズは、被災者の見守り事業など様々な支援を行なってきて、今は子どもたちの安全な居場所を作る事業を市などと協力して進めています。橋本さん自身、この2年の経験を経て思うのはどんなことですか?
橋本:「生きる選択は本人にある」ということです。それを痛感したのは、9月の集中豪雨で孤立した集落から高齢女性を救出しに行ったときのこと。その人は「このヘリはどこに行くの?」と聞きました。「市内の仮設住宅です」と言うと、「市内ならば」と納得して乗ってくれました。後から聞くと、行き先が市外だったらヘリコプターには乗らなかったと言うのです。地震の後、しばらく金沢の親族の家で暮らしたけれど、珠洲に帰りたかったと。この人は快適さや便利さより何より、「どんな隅っこでもいいから珠洲市内で暮らしたい」と願っていました。

もうひとつの例は、地震発生の前日に体調を崩して入院していた高齢男性です。幸い後遺症もなく10日ほどで退院したのはよかったのですが、自宅が全壊していたために寒いなか、夫婦は車庫で暮らしていました。同居していた子ども一家が市外で「みなし仮設」を使って生活を始めたために珠洲に残った老夫婦は仮設住宅にはいることができない。
息子と同居するとか、息子家族が賃貸住宅を使うとか、はたから見ると、「こうすればいいのに」と思うことはあっても、本人が「仮設は息子家族が使えばいい」「自分は家を修繕して住む」と言えば、結局、人生の選択はその人のもの。長い時間話を聞いて、「わかった。家の改修を応援します」と支援することを決めたら、そこから体調は右肩上がりに良くなって、今ではすっかり元気になってどんどん家を改修しています。元は大工さんなので、二階建てを平屋に減築し、壊れた部分を切り離して筋交を入れた新しい壁を作って、訪ねるたびに家は姿を変えています。


――ただ全体状況を見ると、珠洲市の人口は地震発生時の11,720人から2025年夏の時点で9,952人(石川県統計)と人口流出が続き(15%もの減少)、65歳以上の老年人口の割合は54.1%と非常に高く、インフラの復旧もまだまだ手付かずのところがあるような厳しい状況が続いています。
橋本:地震と豪雨によって、過疎化と高齢化が10年速く進んでしまいました。ただ、これはいずれ日本全国の自治体が直面する問題で、珠洲市だけの問題ではありません。地震から2年、豪雨から1年半が過ぎて、これからの課題は災害の緊急支援と(災害がなくても必要な)平時の福祉、その狭間で必要とされる支援をどう届けるか。人が減って福祉のリソースが戻ってこないなかで、誰も取りこぼさないようにするにはどうすればいいのか、日々模索を続けています。
原点となったボルネオ島での経験

――橋本さんはヘッドセットを常時着用して、かかってくる電話や持ち込まれる相談事に漏れなく応じて休みなく活動しているように見えます。そのエネルギーの元にあるのは、どんな人生観なのでしょう?
橋本:私は「生きている」という感覚を持ったことがありません。というと否定的に聞こえるかもしれませんが、そうではなくて「生かされている」という感覚しかないのです。
生後6ヵ月の時に小児白血病にかかりました。高熱が続いて泣く力もない状態で、医者からは「あと1週間がヤマです」と言われたそうです。それを「あと1週間で死ぬ」と受け取った母は、それなら自分の腕の中で見送ろうと医者の反対を振り切って家に連れて帰りました。無神論者だったのに寺社仏閣からお地蔵さんまで、あらゆる神様に祈ったそうです。「この子を助けてください。助けてもらえたらこの子の命を捧げます」と。
すると、やがて熱が下がり、それでも医者には「20歳まで生きられません」と言われたのが、60歳になって元気に生きています。そんな経験から、母に「あなたの人生は神様に捧げた」と言われて大きくなりました。それなら私は何をするために生かされているのだろう、というのが私の人生の問いです。
母親がその後キリスト教の信者になったこともあり、同じ宗派の全寮制の学校に入りました。中学1年生の時、「私のすべきことは何ですか」と猛烈に祈ったら、その夜、夢を見ました。開拓伝道師としてジャングルに入って、伝道ではなく病気になった仲間の看護をしていました。その時、「これだ!」と思ったのです。そして、小学校4年から中学3年まで「パスファインダー(path finder=道を見つける)・クラブ」というボーイスカウトのような活動をして、その後も指導者としてクラブに残ったことが将来への道に繋がったかなと思っています。
システムエンジニアとして働いていた22歳の時に、キリスト教の同じ宗派が運営するADRAという人道支援団体が主催する海外ボランティアに高校生を引率して参加しました。ボランティアが日本ではまだ馴染みのない1988年、会社を休んでマレーシアのボルネオ島に井戸を掘りに行くと言うと、同僚たちからは「井戸が必要なら金を出せばいい。自分で行くなんて自己満足だ」と言われました。その時、私はなぜ行くのか答えることができないまま出発しました。
スコップ3本で井戸を1本手で掘り進める過酷な活動でしたが、イバン族の村で生活する中で「本当の幸せって何だろう?」とずいぶん考えさせられました。最後の日、酋長がこう言ってくれました。
「井戸はお金で買えます。その井戸もいずれ朽ちるでしょう。でもあなたたちの愛の行為は一生語り継がれます」。
胸に沁みました。この地域に先にキリスト教を伝えた他の宗派の人たちから私たちを追い出せと言われた時には、酋長はこう答えたそうです。「愛を実践しているのは誰ですか? 私は彼らを追い出すことはできません」。大切なのは行いを以て示すこと。ボルネオでのあの経験が私の原点です。
――そのままADRAに入られたのですか?
橋本:いいえ。その後、父の会社が倒産して妹たちの学費を賄う必要があったので、20代はシステムエンジニアとして猛烈に働きました。援助の仕事に入るきっかけは1995年の阪神淡路大震災でした。ボランティアをするうちADRAが日本での組織を拡大するのを機にスタッフになりました。各地の災害や紛争に対応する中、コソボ紛争では大火傷を負った少女が日本の病院で治療を受けるために我が家で預かったこともあります。結局、11年の間に15回の手術を受けることになりました。
彼女を預かる時はすごく悩みました。他に引き受ける人はおらず、私がノーと言えば彼女の未来はなくなる。その時、聖書の言葉を見つけました。
「これら最も小さい者のひとりにしたのは、私にしたのである」。
支援をするとき、「多くの人を救いたい」と考えがちだけれど、この目の前の人に何かができないのなら意味がない。そう思って引き受けることにしました。家族の理解と助けがなかったらできませんでした。
祭りに見た地元の人たちの強い意志

――その後ピースウィンズに移って、能登半島地震発生の3日後の1月4日から珠洲市での駐在を続けているわけですが、「これまでのピースウィンズの支援とは違うものになるかも」と考えていらっしゃるとか?
橋本:いや、ピースウィンズの支援に決まった「型」があるわけではないので、そういう言い方は適切ではないかもしれませんが、緊急時に「ドン!」と入って、大きな事業を「バン!」とやるのと違って、高齢化と過疎化が急速に進む珠洲市での活動は、支援と福祉の境目が曖昧なところでの新しい支援の形になると思っています。
私は、緊急支援は子育てと同じだと思っていて、いずれ手を離すものだと考えています。支援者がいなくなって元に戻ってしまったらその支援は失敗なので。だから、どこかで背中を押す姿勢に変えていかない。でも今は背中を押されても立ち上がれない人がいる。教育を考えると子どもと労働人口である親世代が珠洲を離れていく中、福祉のリソースがなければ困窮する人が出てくる。制度の隙間に落ちてしまう人がどうしても出てしまうのです。そのギャップをどう埋めていくのか。
正直に言うと、6月くらいまでは、この先どうなってしまうのだろうと頭を抱えそうになりました。でも、夏のお祭りを見て目が覚めました。7月の飯田燈籠山(とろやま)祭り、9月の蛸島の秋祭り、正院の秋祭り、日本一のキリコが巡行する寺家(じけ)の秋祭り、その活気を見て珠洲の底力を見せつけられた気がしました。この土地の文化を守り抜こうという強い意志を感じました。それはこの地域に住む人びと選択であって、私が心配するなんておこがましいなと。なので、これからも、ちょっと背中から支えるくらいの支援を続けていこうと思っています。


橋本 笙子 はしもと しょうこ
約8年システムエンジニアとして働いた後、国際協力NGOで広報、支援者対応、国内外の事業管理等を担当し24年勤務。2020年9月ピースウィンズに入職。現在、国内事業部次長、珠洲事務所代表。石川県珠洲市復興計画策定委員会有識者会議委員でもある。
