傷跡の残る街ハラブジャへ 化学兵器となお続く不安定な情勢
2002年12月4日、クルド人自治区内で衝突事件がありました。自治区内の主要2政党の一つで自治区の東側を勢力下に置くクルド愛国同盟(PUK)と、アルカイダともつながりがあるともいわれる「ジュンダ・イスラム」(アンサール・イスラム=JI)との衝突です。確度の高い情報が少ないのですが、死者は40人以上といわれています。衝突が起きたのは、JIが勢力下に置くハラブジャの街の近く。支援活動に関連する情報収集のため、事件からほどなくして、現地に入りました。
ハラブジャへ入る道の警戒はかなり厳重に感じられました。行きは、メーンではない道を使いましたが、それも5分ほど走るごとに検問所があり、周囲は武装した兵士が”臨戦態勢”という雰囲気で警備していました。現地の事情に詳しい人によると、このような警戒レベルはここ数年、なかったとのことです。
街の中心部に、化学兵器の悲劇を伝えるモニュメントがあります。子どもと成人の像で、たおれた子どもをかばっているかのようにもみえます。
イラン・イラク戦争中の1988年3月16日、イランを支援しているとして、イラク軍がこの街で、化学兵器を使ったとされています。多くの市民が犠牲となり、死者数は5000人とも。イラク軍は、化学兵器使用の痕跡を隠すため、その後、街を大規模に破壊したといいます。
カメラを構えると周囲から、政情のためか宗教的な理由からかはわかりませんが、警戒のまなざしが返ってきます。撮影は最小限にし、墓地に向かいました。
墓地では、新しい花びらを散らせた墓が目に入りました。「衝突事件の犠牲者のもの」ということでした。「1988年3月16日」と書かれた墓がありました。化学兵器が使われたとされる日付です。身元が分からないため、数百人もの亡骸を1カ所に集めた場所もありました。
「以前はイラク軍に破壊された建物の残がいがあちこちに残っていたが、すっかり少なくなった」とスタッフの1人。ここ1-2年で復興のテンポが急に上がったようです。小さな公園に子どもたちの声が響いていました。ほんの一瞬、緊張感が遠のきました。
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