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【バングラデシュ】ロヒンギャ難民危機から7年 (後編) ―叶うならば、故郷に帰りたい―

これまでの7年を振り返り、ピースウィンズのロヒンギャ難民キャンプでの支援活動と、ロヒンギャ難民(ミャンマー避難民)へのインタビューを前編では紹介しました。
 
→参照:
8月25日【バングラデシュ】ロヒンギャ難民危機から7年 (前編) ―減少する国際社会からの支援とロヒンギャの人々の声「私の人生は美しく変わった」
 
この7年の間にもミャンマー国内での武力衝突の激化により、ロヒンギャの人々はミャンマーからバングラデシュの難民キャンプへ逃れ続け、現在では98万人を超える人々がバングラデシュ南東部のコックスバザールにある難民キャンプで避難生活を続けています。
 

ロヒンギャ難民キャンプでは、約12平方キロメートル(東京都千代田区ほどの広さ)に約98万人が暮らしています

 
ピースウィンズは、ロヒンギャ難民とホストコミュニティ(キャンプが作られる前からバングラデシュ人が生活している地域)の住民を「コミュニティボランティア」として育成し、彼らが主体となり、病気の予防方法や健康的な生活を送るための知識を伝える啓発活動を行っています。
 
後編は、ロヒンギャ難民と、彼らと同じ地域で生活するホストコミュニティの人々の思いをご紹介します。
 
豊かな暮らしから難民となったアブ・スレイマンさん (78歳)
 

インタビューを受けるアブ・スレイマンさん(左)

 
バングラデシュに避難する前は自分の土地を持ち、不自由のない豊かな暮らしをしていたアブ・スレイマンさん。迫害から逃れるためにバングラデシュに来ましたが、生活は一変してしまったと言います。
 
「初めてバングラデシュに来たときは、恐怖を感じていました。多くの人々がミャンマーからバングラデシュに逃れており、私たちは困窮していました。食料も仮設住宅もなく、病気やけがの治療のための施設もありませんでした。多くのNGOの活動のおかげで、7年前の状況と比較すると現在の状況は良くなっています。今では道路も整備され、診療所をはじめとするあらゆる施設が利用可能となりました。しかしながら、家屋は家族の人数を考えると狭く、各家庭にトイレがないため共用トイレを利用しなければならないなど課題はあります。また、十分な教育を子どもたちに受けさせることができず、診療所で十分な薬をもらうこともできません。キャンプの外に自由に出られないことも、大きな問題だと感じています。」
 
命の危険から逃れるために、それまで築いてきたミャンマーでの生活を手放さなければならなかったアブ・スレイマンさん。彼に未来への思いを聞きました。
 
「世界中に平和が訪れ、戦争がなくなり、人々が苦しみから解放されるよう、私たちが平和に共に暮らせるように願っています。キャンプ内での夜間の銃撃がなくなり、安全に暮らしたいです。そして、できることならミャンマーに戻りたいです。」
 
70歳まで過ごし、慣れ親しんだ土地とは全く異なる環境の難民キャンプで暮らすことは、彼にとって困難であることは想像に難くありません。
 
生まれ育った土地を離れなければならないことは、どの年代にとっても辛く大変なことです。
 
15歳で難民となり、今は教師として活動するアブボッコールさん (22歳)
 

若くして難民となったアブボッコールさん(左)現在はキャンプで教師となり、勉強を教えています

 
「2017年8月、私は15歳で学校に通っていました。勉強も順調で、友達と魚を捕まえたりして遊んでいました。自分の生まれ育った土地が、こんなにも危険な状況になるとは思ってもいませんでした。7年前に初めてバングラデシュに来たとき、これからどうなるか全く想像がつかず、とても不安でした。」
 
ミャンマーで楽しく少年時代を過ごしていたアブボッコールさん。彼もまた、突然、全く知らない土地への避難を余儀なくされ、今も難民キャンプで生活しています。彼に現在の状況について聞きました。
 
「この難民キャンプに来てから、多くのNGOからさまざまなトレーニングを受け、多くのことを学び続けられています。また教師となり、自分が子どもたちに教えることで、地域の人々を手助けできていると感じています。今はキャンプでの生活は順調ですが、警察の数が少ないため、ほぼ毎晩、銃撃戦が起こります。ミャンマーにいたときも銃声のせいで眠れませんでしたが、今も銃声のせいで眠れず、恐怖の中で生活しています。」
 
未来が見えない不安の中でも努力し、教師として地域に貢献しているアブボッコールさんが願う未来を聞きました。
 
「私の願いは、進学して医学を学び、医師になることです。しかし難民キャンプには、そのような高度な教育が受けられる機会や施設がないため、夢を叶えることは難しいと感じています。いつミャンマーに戻れるようになるのか知りたいです。ミャンマーに戻って医学を学び、医師として人々の役に立ちたいです。」
 
アブ・スレイマンさんやアブボッコールさんたちが暮らす難民キャンプは、バングラデシュのコックスバザール県にあります。コックスバザール県の市街地はバングラデシュ有数のリゾート地としても知られています。
 

難民キャンプがあるコックスバザール県のビーチ。バングラデシュ人の憧れの地です

 
そこから南へ海岸沿いに車で2時間ほど行くと、田園風景が広がっていきます。バングラデシュの人々がもともと住んでいたその農村地域に、ロヒンギャ難民キャンプはできました。私たちが行っている啓発活動は、難民キャンプだけでなく、難民キャンプ周辺にあるホストコミュニティでも行っています。
 
首都から離れ、国境に近いこの農村・漁村地域は、もともと経済的に恵まれているわけではありません。突然、多くの難民が移り住むことになったことで、彼らの生活も変化しました。そのような状況でロヒンギャ難民だけを支援すると、ホストコミュニティに住む地域住民とロヒンギャ難民の間に摩擦が生じることがあります。そのため、難民キャンプに住むロヒンギャ難民とホストコミュニティに住むバングラデシュ人の双方に支援活動を行っています。
 

ホストコミュニティ:ムチャコラ村での啓発活動

 
ホストコミュニティの人々にも話を聞くと、地域住民の生活も難民の流入以降は変わったと言います。
 
コミュニティボランティアとして働くラジアさん (25歳)
 

ロヒンギャ難民キャンプの近隣住民であるラジアさん(右)コミュニティボランティアとして当団体の啓発活動を支えています

 
「7年前までは、コックスバザールでの私たちの生活には何の問題もありませんでした。ロヒンギャの人々がこの地にやって来た時、彼らの状況に強く共感し、何としてでも助けなければならないという強い思いを抱いたのを覚えています。私の家は小さいですが、4〜5人の女性のために一時的に滞在する場所を提供しました。村でお金を集めて、ロヒンギャの人々に食料を提供する活動もしました。」
 
ラジアさんの話から、支援機関による支援だけでなく、ホストコミュニティに住む地域住民もロヒンギャの人々の支援に尽力していたことが分かります。彼女に現在の状況を聞くと複雑な思いを語ってくれました。
 
「ロヒンギャの人々だけでなく、私たちの状況も以前より良くなっていると感じます。多くのNGOが現地で活動しているおかげで、就業の機会が増え、今では女性も経済活動に参加できるようになりました。しかし、人口が増えたことにより食料の需要が増え、供給が需要に追いついかず、物価が高騰しています。人の往来も増えたため、交通渋滞が発生しています。ロヒンギャの人々が来る前は、この地は静かなのどかなところで、緑も多くもっと美しかったように思います。」
 
ロヒンギャ難民の状況に対し理解を持ちながらも、環境が変わってしまったことに戸惑いを感じているラジアさんは未来への思いをこう話します。
 
「政府が必要な措置を講じない限り、将来もロヒンギャの人々はここに留まらざるを得ないでしょう。 私は世界中の人と同じように、家族や親戚、親しい友人たちと一緒に幸せに暮らしたいと思っています。彼らもそれは同じだと思います。」
 
今回のインタビューでは、様々な立場からバングラデシュに難民として逃れてきた人々や、難民キャンプができる前からその地域に住んでいた人々の話を聞きました。ロヒンギャ難民もホストコミュニティの人々も、抗えない情勢の変化によって生活が変わってしまったことに変わりありません。この状況を改善するためには、国際社会の協力が不可欠です。ピースウィンズも引き続き、彼らへの支援を続けていきます。
 

難民キャンプで暮らす人々の約半数が18歳未満の子どもたち

 
支援が減少していっている今、ロヒンギャ難民の長期化する避難生活を支えるためには、皆さまからの継続的なご支援が必要不可欠です。引き続き、皆さまからの温かいご支援を、どうぞよろしくお願い申し上げます。
 
※ピースウィンズの活動は、ジャパン・プラットフォームからの助成金や個人・法人の皆さまによるご寄付金により、実施しています。

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